森を見て木を見よう ¶
理解の速さは「最初にどれだけ大雑把に捉えられるか」で決まる.真面目に理解しようとすればするほど,一文一文,定義一つ一つを正確に追おうとして,かえって理解に時間がかかることがある.細部に近づきすぎて,全体が見えなくなるからだと言える.
この状況は,「解像度」の問題として捉えると分かりやすい.理解には本来,粗い見方から細かい見方まで,いくつもの解像度がある.しかし真面目に取り組むと,最初から高解像度で理解しようとしてしまう.その結果,どの情報も同じ重さでのしかかり,重要度の判断ができなくなる.これは「木を見て森を見ず」という状態に近い.
方角のある地図を描こう ¶
では,なぜ解像度の調整がうまくいかなくなるのか.鍵になるのは,「何がしたいのか」という方角が定まっていないことだと思う.
たとえば,球技を考えてみる.野球やサッカーでボールを投げたり蹴ったりするとき,ひとは無意識のうちに「このくらいの強さで,この角度なら,だいたいここに飛ぶだろう」と予測している.実際のプレーでは,空気抵抗や回転,地面との摩擦など,細かい要因はいくらでもあるが,最初からそれらをすべて意識しているわけではない.まずは「ボールをここに運びたい」という目的があり,そのための粗い見通しを持った上で,経験的に調整している.
ところが古典力学を学ぶ段階になると,この順序が逆転しがちになる.ニュートンの運動方程式やベクトル表示,微分方程式の解法といった細部を,最初から正確に理解しようとしてしまう.その結果,「何のためにこれらを使うのか」という方角が見えなくなり,情報の重要度を判断できなくなる.
ここで一度,「古典力学とは,球技で行っているような運動の予測を,言葉や数式で体系的に扱うための枠組みだ」という位置づけを先に置いてみると,状況は変わる.運動方程式は予測の核となる道具であり,他の技巧は精度を高めるための補助だと分かる.方角が定まることで,頭の中に粗い地図が描けるようになり,どこで解像度を上げるべきかを選べるようになる.
最も粗い見方では,「強く投げれば遠くに飛ぶ」「角度を変えれば落ち方が変わる」という経験則があるだけで十分だ.ここでは数式も概念も必要ない.もう一段解像度を上げると,「どのように力を加えたかが運動を決めているらしい」という見通しが立つ.ここで初めて,「力」や「運動」という言葉が必要になる.さらに,「その関係を一つの規則でまとめられないか」と考えたとき,ニュートンの運動方程式が意味を持ち始める.この段階では,式の厳密な導出よりも,「予測を圧縮する道具」として理解できれば十分だ.微分方程式の解法やベクトル表示は,その先で精度を上げたいときに初めて必要になる.
もっとも,古典力学を理解したからといって,それだけで球技がうまくなるわけではない.実際にボールを意図した通りに扱えるようになるには,反復的な訓練を通して,身体の動かし方を自分のものにしていく必要がある.理論は動作を直接置き換えるものではなく,あくまで「どこに注意を向けて練習すればよいか」という方角を与えるにとどまる.
地図を頼りに ¶
方角のある地図が一度できると,細部で迷子にならなくなる.分からない箇所が出てきても,「ここは後回しでいい」「これは今の目的には重要ではない」と判断できる.理解が速い人は,最初から詳しい地図を持っているわけではなく,向きだけ合った雑な地図を先に描いているのだろう.
この話は,記憶の問題とも深くつながっている.知識を単体で覚えようとすると定着しにくいが,地図の中のどこかに位置づけられると,「覚えようとしなくても覚えられる」状態になる.記憶は努力の結果というより,理解が構造化された副産物なのかもしれない.
真面目に勉強しているのに遅く感じるとき,努力が足りないわけではない.方角が定まらないまま,細部を詰め込もうとしているだけかもしれない.まずは目的を置き,粗い地図を描く.その上で,必要なところだけ解像度を上げていく.理解の速さとは,その行き来を自然にできるかどうかにある.
なお,地図を描くのがうまくなりすぎて,それを眺めて満足してしまうこともある.けれども,実際にその場所に行き,試し,失敗して初めて得られるものは,地図の上には書き込めない.