最終更新日: 2026/01/30
作成日: 2026/01/29

コラム7:Matsubara形式は「何を仮定しているのか」

Matsubara形式の便利さを,平衡(KMS)と時間並進対称性がKeldysh理論の自由度を縮約し,虚時間周期性と離散周波数を生むという観点から読み替える.

Matsubara形式は,平衡物性理論において最も洗練され,成功してきた記述の一つである.虚時間表示と離散的なMatsubara周波数は,多くの計算を整理し,見通しの良い直観を与えてくれる.その有用性は疑いようがなく,本書でもMatsubara形式そのものを否定する意図はない.

ただし第7章で見たように,Matsubara形式は「いつでも使える一般理論」というより,熱平衡という非常に特別な状況を前提にした表現として位置づける方が正確である.このコラムでは,Matsubara形式が暗黙に仮定していることを,Keldysh形式との対比で言語化しておく.

見えていない前提:虚時間周期性の出所

虚時間の周期性やMatsubara周波数は,便利な定義から勝手に湧いてくるわけではない.その背後には少なくとも次の前提がある.

  • 熱平衡(Gibbs状態)の選択:$\rho_{\mathrm{eq}}\propto e^{-\beta H}$(より一般には $H-\mu N$ など)という初期状態を選ぶ.
  • 時間並進対称性(定常性):相関が $t-t'$ だけに依存し,周波数表示が意味を持つ.
  • KMS条件(=平衡の定義の内容):実時間相関が虚時間シフトで結び付く(7.1節).
  • FDT(KMSの二点関数版):統計成分が応答と温度から固定される(7.3節).

これらが揃うと,実時間KMS条件

$$\begin{align} \langle A(t)B(0)\rangle_{\mathrm{eq}} = \langle B(0)A(t+i\beta)\rangle_{\mathrm{eq}} \end{align}$$

は,虚時間相関の周期性

$$\begin{align} G_M(\tau+\beta)=\pm G_M(\tau) \end{align}$$

(ボース/フェルミ)として現れる.この周期性こそが,Matsubara周波数という離散化を生む源である.言い換えると,Matsubara形式が「何も仮定していないように見える」のは,平衡ではこの一連の制約が自然に成立し,前提として意識されにくいからにすぎない.

形式の強さは,情報が減っていることの裏返し

Matsubara形式が強力なのは,平衡で「すでに情報が縮約されている」からである.Keldysh形式では,二点関数には力学を担う成分($G^R,G^A$)と統計を担う成分($G^K$)があり,非平衡では後者は独立自由度として残る.平衡ではKMS条件(動的KMS対称性)がそれを固定し,二点関数の情報量が減る.

重要なのは,形式として優れていることと,適用範囲が広いことは同義ではないという点である.Matsubara形式は平衡では最短距離だが,その「最短」は,前提を満たすときに限って開通している.本章でKeldysh形式から出発したのはMatsubaraを相対化するためではなく,どの条件が成り立つときにMatsubaraが自然に現れるのかを明示するためである.

非平衡では何が壊れるか

非平衡(外場駆動,複数熱浴,NESSなど)では一般にKMS条件が成立せず,FDTも破れ,虚時間方向の周期性が失われる.さらに,二点関数は一般に $G(t,t')$ と二つの時間に依存し,周波数表示ですら自明ではない.その結果として,Matsubara周波数という離散化や,虚時間順序Green関数だけで完結する計算枠組みは成立しなくなる.

これはMatsubara形式の欠点ではなく,成立条件がきわめて明確であることの表れである.「非平衡だから難しい」のではなく,平衡で隠れていた前提が剥がれ,独立自由度が復活するのである(コラム6).

本書の立場

本書では,Matsubara形式を「平衡点での自然な記述」,Keldysh形式を「その平衡点を含む一般形」として位置づける.この視点に立つことで,平衡理論と非平衡理論の関係は断絶ではなく,平衡点(時間並進+KMS+FDT)を基準にした連続的構造として理解できる.

Matsubara形式は非平衡理論への入口を閉ざすものではない.むしろ,どこから非平衡が始まるのかを教えてくれる基準点として,今後も重要な役割を果たし続けるだろう.


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