Schwinger–Keldysh形式は,しばしば「非平衡用のGreen関数」と紹介される.この言い方はたしかに便利だが,物理的には正確ではない.なぜなら,Keldysh形式は「非平衡のために後から足した拡張」ではなく,量子力学の期待値を実時間で正直に書き下した一般形であり,平衡はその上に追加の制約(KMS条件)を課した特殊な場合として現れるからである.
本コラムの狙いは,Matsubara形式とKeldysh形式を「用途」で並列に分類するのではなく,「どの仮定を定義に埋め込むか」という観点で位置づけ直すことにある.その見通しを持っておくと,非平衡が難しく見える理由や,Keldysh形式の役割が自然に理解できるようになる.
何が誤解なのか:二つの分類が混ざっている ¶
「Matsubara=平衡用,Keldysh=非平衡用」という言い方が誤解を生む最大の理由は,次の二つの分類が混ざってしまう点にある.
- (A) 物理的仮定の分類:平衡か,非平衡か(KMS条件が成り立つか).
- (B) 計算上の都合の分類:どの変数・順序・表示を使うと計算が閉じるか/楽か.
Matsubara形式が強力なのは,(A) 平衡を仮定し,(B) その仮定を虚時間の言語に埋め込むことで計算体系が閉じるからである.一方でKeldysh形式は,(A) 平衡をまだ仮定しない.したがって(一般には)(B) 計算上の自由度は増える.この「自由度の増加」を「非平衡用」というラベルで片づけてしまうと,本質が見えなくなる.
Keldysh形式は「非平衡の追加」ではない:期待値の書き下し ¶
Keldysh形式がどこから来るかは,期待値の定義を見れば一目瞭然である.初期状態 $\rho_0$ からの期待値は
$$\begin{align} \langle O(t)\rangle=\mathrm{Tr}\left[\rho_0 U^\dagger(t,t_0) O U(t,t_0)\right] \end{align}$$で与えられる.ここで本質的なのは,時間発展が $U$ と $U^\dagger$ の二回現れることである.これを「前進枝」と「後退枝」として一つの閉じた時間経路にまとめれば,経路順序 $T_{\mathcal C}$ を用いて理論を一貫して書ける.この操作は平衡・非平衡に依存しない.量子力学の期待値を実時間で扱う以上,そもそも避けがたい構造である.
したがってKeldysh形式は,「非平衡で必要になった特別な道具」ではなく,「平衡をまだ仮定していない段階の一般形」である.平衡かどうかは,$\rho_0$ の選び方と,その結果として相関関数がどの対称性(KMS条件)を満たすかで決まる.
平衡はKeldyshの特殊点:KMS条件が自由度を潰す ¶
Keldysh形式では,力学(応答)と統計(分布)が最初から分離して見える.代表的には,$R/A/K$ 分解によって
$$\begin{align} \hat G= \begin{pmatrix} G^R & G^K\\ 0 & G^A \end{pmatrix} \end{align}$$のように整理できる(規約は文献により異なる).ここで $G^R,G^A$ は因果性とスペクトル構造に支配される一方,$G^K$ は分布・初期条件・履歴といった統計的情報を担う.一般には $G^K$ は独立自由度として残る.
平衡では事情が変わる.平衡密度行列 $\rho_{\mathrm{eq}}\propto e^{-\beta H}$ を仮定すると,KMS条件
$$\begin{align} \langle A(t)B(0)\rangle=\langle B(0)A(t+i\beta)\rangle \end{align}$$が成立し,それが周波数空間では揺動散逸定理(FDT)として現れる.このとき統計成分は温度によって固定され,非平衡で残っていた自由度が大きく減少する.Matsubara形式は,この縮退(平衡という強い制約)を最初から埋め込んだ言語である.
要するに,
- Keldysh形式:平衡をまだ仮定していない一般形(応答と分布を分けて保持する).
- Matsubara形式:平衡(KMS条件)を仮定し,虚時間の言語として閉じた体系を作る.
という包含関係が本質であり,「平衡用/非平衡用」という用途分類はその結果に過ぎない.
(補足)平衡をKeldyshで入れると,Matsubaraが見えてくる ¶
Keldysh形式が平衡も含むことを,もう一段だけ具体的に言い換えておく.平衡初期状態は
$$\begin{align} \rho_{\mathrm{eq}}=\frac{1}{Z}e^{-\beta H} \end{align}$$で与えられるが,$e^{-\beta H}$ は「虚時間 $\tau=\beta$ だけの時間発展」に見える.したがって経路積分(あるいは生成汎関数)の言葉では,実時間の前進枝・後退枝に加えて,虚時間方向に $-i\beta$ だけ下る枝を付けた輪郭を考えると,自然に熱平衡のトレース構造が実装できる.
平衡では時間並進対称性とKMS条件が同時に成り立つため,この複素時間輪郭の情報は強く制限される.その制限を最大限に利用して「虚時間だけで閉じる表示」を採用したものがMatsubara形式であり,実時間の応答へ戻るときに解析接続が現れる.ここでも関係は一方向である.平衡という強い条件があって初めて,虚時間の言語が閉じて見える.
では,いつどちらを使うのか ¶
ここまでの話を踏まえると,「どちらを使うべきか」という問いへの実用的な答えも整理できる.
- 平衡を強く仮定してよい(温度で状態が特徴づく,KMS条件が成り立つ)なら,Matsubara形式は計算が閉じて強力である.
- 初期状態,過渡応答,駆動,分布の非自明さを捨てたくないなら,Keldysh形式が自然である(その分,独立に追うべき情報は増える).
- 平衡を扱う場合でも,Keldysh形式で計算してから平衡条件(KMS)を課すことはできる.「どちらしか使えない」という話ではない.
誤解を避けるための一文で言えば,次のようになる.
非平衡が難しいのではない.平衡が,強い仮定によって特別に簡単だったのである.
まとめ ¶
- Keldysh形式は「非平衡のための拡張」ではなく,期待値の定義から出る一般形である.
- 平衡はKeldysh形式の特殊点であり,KMS条件が統計的自由度を温度で固定する.
- Matsubara形式はその平衡条件を最初から埋め込んだ言語である.
- 「非平衡用」というラベルは便利だが,本質(仮定と自由度の関係)を隠しやすい.