本書では「状態」という語を,必要に応じて純粋状態(状態ベクトル)と混合状態(密度行列)の両方を含む意味で用いる.非平衡を扱うとき,初期条件としての状態がどのように表現されるかは本質的であり,「相関関数」と「状態」を同一視しないためにも,ここで用語と数式を整理しておく.
純粋状態:状態ベクトルによる記述 ¶
量子力学で最も基本的な状態の記述は状態ベクトル(ケット)$|\psi\rangle$ である(全体位相を除いた同値類).任意の観測量 $O$ の期待値は
$$\begin{align} \langle O\rangle_\psi=\langle\psi| O |\psi\rangle \end{align}$$で与えられる.この意味で純粋状態とは,「これ以上古典確率として分解できない状態」である.
混合状態:密度行列による記述 ¶
次のような状況を考える.確率 $p_i$ で純粋状態 $|\psi_i\rangle$ が準備されるが,実験者はどの $|\psi_i\rangle$ が実現したかを区別できない.このとき期待値は
$$\begin{align} \langle O\rangle=\sum_i p_i\langle\psi_i|O|\psi_i\rangle \end{align}$$となる.この確率混合を一つの演算子としてまとめたものが密度行列
$$\begin{align} \rho=\sum_i p_i|\psi_i\rangle\langle\psi_i| \end{align}$$であり,期待値は一般に
$$\begin{align} \langle O\rangle=\mathrm{Tr}(\rho O) \end{align}$$と書ける.以後,状態を一般に扱うときは密度行列を用いるのが便利である.
数学的な区別:射影性 ¶
純粋状態に対応する密度行列は
$$\begin{align} \rho_{\mathrm{pure}}=|\psi\rangle\langle\psi| \end{align}$$であり,
$$\begin{align} \rho_{\mathrm{pure}}^2=\rho_{\mathrm{pure}} \end{align}$$を満たす(射影演算子).一方,混合状態では一般に $\rho^2\neq\rho$ である.この射影性は,「一つのベクトルで表せるかどうか」という違いを数学的に特徴づける基準になっている.
情報の観点:エントロピー ¶
純粋状態と混合状態の違いは,含まれている「情報の欠落」の性質としても捉えられる.純粋状態にも量子的な不確定性はあるが,それは演算子の非可換性に由来するものであり,古典確率の混合とは別である.混合状態は,古典確率や部分系化による情報欠落を含む.
この違いはフォン・ノイマンエントロピー
$$\begin{align} S=-\mathrm{Tr}(\rho\ln\rho) \end{align}$$で定量化される.純粋状態では $S=0$ であり,混合状態では一般に $S>0$ になる.
絡み合いと混合状態 ¶
混合状態は必ずしも「我々の無知」だけから生じるわけではない.二体系 $A+B$ が純粋状態 $|\Psi\rangle_{AB}$ にあるとしても,部分系 $A$ の状態
$$\begin{align} \rho_A=\mathrm{Tr}_B|\Psi\rangle\langle\Psi| \end{align}$$は一般に混合状態になる.これは絡み合いによる情報の分配であり,古典的確率混合とは本質的に異なる.多体系ではこの機構が普遍的に現れ,局所的な観測だけでは全体の純粋性を回復できない.
本書の文脈での位置づけ ¶
本書では,形式によって状態に関する仮定の入れ方が異なる.
- 平衡統計力学では,最初から混合状態(カノニカル分布など)を仮定する.
- Matsubara形式では,KMS条件が状態を強く固定し,初期条件依存を議論の外へ追いやる.
- Keldysh形式では,初期状態 $\rho_0$ を与えるだけで出発し,平衡を定義の段階では仮定しない.
この違いを意識すると,「相関関数を知れば状態が決まる」という誤解を避けやすい.非平衡では,同じ応答や同じ二点相関を持ちながら異なる状態が存在し得るため,状態と相関を同一視することは危険である.
まとめ ¶
- 純粋状態は状態ベクトルで表され,混合状態は密度行列で表される.
- 純粋状態は $\rho^2=\rho$ を満たし,混合状態は一般に満たさない.
- フォン・ノイマンエントロピーは混合の度合いを定量化し,純粋状態では $S=0$ である.
- 絡み合いにより,全系が純粋でも部分系は混合状態になり得る.
以上の区別は,Green関数が「状態そのもの」ではなく,状態のもとでの応答と揺らぎを記述する言語であることを理解するための前提になる.