9.4 時間の矢はどこから来るか

時間反転対称なミクロ法則のもとで,なぜ散逸やエントロピー増大といった時間非対称性が現れるのかを,粗視化(自由度の選択)と経路確率の非対称性の観点から整理する.「時間の矢」を後付けの仮定ではなく,有効記述の構造として位置づける.

本章の最後に,最も根源的な問いに立ち返る.なぜ我々は未来と過去を区別するのか.言い換えれば,なぜ散逸は一方向にしか起きないように見え,なぜエントロピーは増大するのか.

ミクロ法則と時間反転対称性

多くの基本法則は時間反転に対して対称である.ハミルトニアン力学,シュレーディンガー方程式,Liouville 方程式はいずれも,時間 $t\to -t$ の変換の下で本質的に同じ形を保つ.したがってミクロな記述のレベルでは,過去と未来は等価であるはずだ.

それでも非対称性は現れる

しかし実際の現象では,散逸は一方向に起き,エントロピーは増大し,記憶は過去から未来へ流れる.この時間非対称性はどこから来るのだろうか.重要なのは,この非対称性が「ミクロ法則の非対称性」や「外場の存在」,あるいは「摩擦項を入れたから」といった後付けの理由で生じているのではない点である.

自由度の選択としての時間の矢

本章を通じて見てきたように,非平衡理論における不可逆性は,「どの自由度を記述し,どの自由度を捨てたか」という選択と不可分である.粗視化とは,ある自由度を「見る」ことを選び,それ以外を系の外に押し出す操作である.このとき捨てた自由度は環境として働き,その自由度へ流れたエネルギーや情報は観測自由度だけの記述からは回収できない.その結果として,環境の痕跡は記憶核やノイズ相関として残り,時間の向きが有効記述の中に刻み込まれる.

記憶と不可逆性

射影によって得られる有効方程式は一般に非マルコフ的であり,過去の履歴に依存する.すなわち「記憶を持つ」.しかしこの記憶は未来を参照するものではなく,過去に向かってのみ伸びる.記憶核の積分が $\int^t dt'$ の形を取るのは偶然ではない.ここに,未来が現在に作用しないという因果性と,過去だけが残るという非対称性が同居している.時間の矢は,この「記憶の向き」として有効記述の中に現れる.

エントロピー生成の視点

経路確率の言葉では,時間の矢は,順過程と逆過程の間の確率の非対称性として定式化される.第9.3節で定義したように,エントロピー生成は経路確率の比の対数であり,力学の法則そのものを破る量ではない.それは,時間反転した経路がどれだけ起こりにくいかを測る尺度である.したがって時間の矢は,「禁止された過程」としてではなく,「起こりにくい過程」として現れる.

初期条件と観測者

しばしば時間の矢は特殊な初期条件に帰せられる.この見方は間違いではないが,本章の立場では一段踏み込んで,どの自由度を初期条件として制御でき,どの自由度を制御しないかという観測者の立場も含めて考える.制御できない自由度を環境として扱う限り,その自由度に流れた情報は回収できず,時間の向きは有効記述に不可避に現れる.

時間の矢はどこにあるのか

以上をまとめると,時間の矢はミクロ法則には存在せず,有効方程式に後付けされたものでもなく,観測者の錯覚でもない.それは粗視化された記述の構造そのものとして現れる.時間の矢は,自然界に一方的に「書かれている」というよりも,我々が世界をどの自由度で記述するかという選択に内在しているのである.

本章の位置づけ

本章で示したのは,散逸・ノイズ・エントロピー生成が,同一の射影構造の異なる側面であり,非平衡性の「原因」ではなく「結果」であるという点である.散逸は捨てた自由度へのエネルギー流として現れ,ノイズはその自由度の相関構造が観測自由度へ写ったものとして現れ,エントロピー生成は経路確率の非対称性を測る尺度として現れる.これらはすべて,粗視化という一つの操作から生じる.

次章では, この射影構造が Green 関数・自己エネルギー・応答関数 としてどのように表現されるのかを議論する。


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