非平衡系では,エネルギー,仕事,熱,エントロピー生成といった量は,単一の値ではなく確率分布として現れる.これは「小さな系だからゆらぐ」というだけではない.非平衡状態は本質的に時間発展を伴い,その過程全体を一つの経路として扱うのが自然だからである.
経路確率としての非平衡 ¶
非平衡ダイナミクスで基本になる対象は,ある時刻の値 $X(t)$ そのものではなく,区間 $[0,\tau]$ にわたる履歴 $X(t)$(経路)が実現する確率である.これを経路確率(path probability)と呼び,形式的に
$$\begin{align} \mathcal P_{\mathrm{F}}[X] \end{align}$$と書く.添字 $\mathrm{F}$ は「順過程(forward)」を表し,初期状態や外場(駆動),散逸の入れ方を含む,その過程の定義全体をまとめて指す.粗視化や環境自由度の消去は,まさにこの経路確率を別の経路確率へ写す操作として理解できる.
ミクロな可逆性と経路の対 ¶
時間反転操作により,順過程の経路 $X(t)$ に対応して,反転経路
$$\begin{align} \tilde X(t)\equiv \Theta X(\tau-t) \end{align}$$が定まる($\Theta$ は運動量の符号反転など,時間反転に伴う変換を表す).ミクロな法則が時間反転対称であっても,非平衡では一般に
$$\begin{align} \mathcal P_{\mathrm{F}}[X]\neq \mathcal P_{\mathrm{F}}[\tilde X] \end{align}$$である.ただし,ここで右辺にあるのは「同じ過程の下で反転経路が起こる確率」であり,これだけでは対称性を正しく比較したことにならない.非平衡では駆動や境界条件が時間反転で変わるため,反転経路の確率は,通常は「逆過程(reverse)」として定義した別の過程の下で評価すべきである.そこで,逆過程における経路確率を
$$\begin{align} \mathcal P_{\mathrm{R}}[\tilde X] \end{align}$$と書くことにする.ゆらぎの定理が定量化するのは,順過程の典型的な経路と,逆過程で対応する反転経路との間にある確率の非対称性である.
エントロピー生成の定義 ¶
順過程で経路 $X$ が実現し,逆過程で対応する反転経路 $\tilde X$ が実現するという二つの出来事を比べる.その確率比
$$\begin{align} \frac{\mathcal P_{\mathrm{F}}[X]}{\mathcal P_{\mathrm{R}}[\tilde X]} \end{align}$$の対数を,その経路に付随するエントロピー生成として定義する:
$$\begin{align} \Delta S[X] = \ln \frac{\mathcal P_{\mathrm{F}}[X]}{\mathcal P_{\mathrm{R}}[\tilde X]}. \end{align}$$ここで「エントロピー生成」と呼んでいるのは,エントロピーという状態量そのものではなく,時間反転した経路がどれだけ起こりにくいかを測る量である.Langevin 系,マスター方程式,量子マスター方程式など,枠組みが違っても,最終的に現れる形はこの「経路確率の比」の形に整理される.
ゆらぎの定理の基本形 ¶
上の定義は,積分型ゆらぎの定理(integral fluctuation theorem)をほとんど自明にする.順過程における平均を
$$\begin{align} \langle \cdots\rangle_{\mathrm{F}} \equiv \int \mathcal D X \mathcal P_{\mathrm{F}}[X](\cdots) \end{align}$$と書けば,
$$\begin{align} \langle e^{-\Delta S}\rangle_{\mathrm{F}} =\int \mathcal D X \mathcal P_{\mathrm{F}}[X]\frac{\mathcal P_{\mathrm{R}}[\tilde X]}{\mathcal P_{\mathrm{F}}[X]} =\int \mathcal D X \mathcal P_{\mathrm{R}}[\tilde X] =1 \end{align}$$となる(最後の等号では,$\tilde X$ を変数とみなしたときの正規化を用いた).この等式は近似を含まない.必要なのは,順過程と逆過程を定義でき,経路の一対一対応が取れるという構造だけである.
さらに分布に書き換えると,詳細ゆらぎの定理(detailed fluctuation theorem)の形が得られる.$\Delta S$ の分布を順過程で $P_{\mathrm{F}}(\Delta S)$,逆過程で $P_{\mathrm{R}}(\Delta S)$ と書くと,
$$\begin{align} \frac{P_{\mathrm{F}}(\Delta S)}{P_{\mathrm{R}}(-\Delta S)} = e^{\Delta S} \end{align}$$が成り立つ.この式は,「負のエントロピー生成」が排除されるのではなく,指数的に起こりにくいことを主張している.
第二法則との関係 ¶
Jensen の不等式を用いると,
$$\begin{align} \langle \Delta S \rangle \ge 0 \end{align}$$が従う.つまり熱力学第二法則は,ゆらぎの定理の「平均」として現れる.第二法則は絶対的な禁止則ではなく,確率的な主張の平均として出てくるという位置づけになる.
近似に依存しない構造 ¶
ゆらぎの定理が重要なのは,線形応答,近平衡展開,長時間極限といった近似の上に立っていない点にある.経路確率が定義でき,時間反転(あるいは逆過程)を定義できる限り,力学の細部に依存せずに成立する.
粗視化との関係 ¶
経路確率は粗視化や射影によって修正される.したがって「エントロピー生成」を観測自由度だけで定義したとき,それが全系のエントロピー生成と一致するとは限らない.むしろ,捨てた自由度に対応する寄与が「見えないエントロピー生成」として残る.
ただし,粗視化後の記述に対しても,その記述の中で順過程と逆過程を整合的に定義し,経路確率の比としてエントロピー生成を定義する限り,ゆらぎの定理そのものは同じ形で成立する.この意味で,ゆらぎの定理は粗視化と整合的である.
時間反転と非平衡性 ¶
ゆらぎの定理は,非平衡性を外場や力の「存在」そのものとしてではなく,経路確率の時間反転非対称性として捉える.この視点は次節で議論する「時間の矢」の問題へと自然につながる.
まとめ ¶
ゆらぎの定理は,ミクロな可逆性のもとで定義できる順過程と逆過程の経路確率の非対称性を,エントロピー生成として定量化する関係式である.近似に依存せず,平衡・非平衡を問わず成立し,不可逆性を確率論として述べ直した最も鋭い表現になっている.
次節では, この経路確率の非対称性が どのようにして 「時間の矢」として現れるのかを考える。