9.1 散逸項の起源

環境自由度を消去した有効記述で散逸(記憶核)が必然に現れることを,摩擦の仮定ではなく見ていない自由度へのエネルギー流として位置づける.

第8章では,粗視化を射影(周辺化)として定義し,環境自由度を消去すると有効運動が一般に非マルコフ的(履歴依存)になり,雑音と散逸が同時に生成されることを見た.第9章ではこの事実を,散逸・ノイズ・エントロピー生成という言葉で読み替え,非平衡における不可逆性がどのように現れ,どのように定量化されるのかを整理する.

ここでいう環境自由度 $Y$ は,外部の熱浴に限らない.粗視化の際に明示的な記述から落とした自由度全般が「環境」として働く.

本節の焦点は散逸である.Langevin 方程式や有効運動方程式に現れる散逸項は,しばしば「摩擦」や「エネルギー損失」として直感的に理解される.しかしこの言い方だけでは,時間反転対称なミクロ法則から,なぜ不可逆に見える項が現れるのかが見えにくい.散逸は力学に後から付け足された仮定ではない.観測自由度だけで閉じた記述を作るために,見ていない自由度の影響を消去した結果として必然的に現れる.

散逸はどこから来るのか

前章で見たように,環境自由度を消去した有効理論では,運動方程式や作用が一般に時間非局所になる.この時間非局所性は,影響汎関数の言葉ではカーネルを伴う項として現れ,Mori–Zwanzig 形式では記憶核として現れる.同じ内容は Green 関数の言語でも書け,応答は自己エネルギーによって修正される.散逸とは,これらの表現に共通して現れる「履歴が残る」という事実の,散逸的な側面を指す.

まとめれば,ミクロな力学は可逆であるにもかかわらず散逸が現れるのは,記述の対象を一部の自由度に限定したからである.可逆性は全系の性質であり,散逸は部分系の有効記述に現れる性質である.

射影とエネルギーの流れ

有効自由度 $X$ と環境自由度 $Y$ を持つ系を考える.全系では,エネルギーは厳密に保存され,力学は時間反転対称である.

しかし $Y$ を消去し,$X$ のみを記述する射影を行うと,$X$ のエネルギーは保存されず,力学は不可逆に見える.このとき起きているのは,エネルギー保存則の破れではない.

エネルギーは $X$ から $Y$ へ流れているが,$Y$ を見ていないために回収できないのである.散逸とは,この「見ていないエネルギー流」を有効理論の言葉で表現したものに他ならない.ここで「回収できない」とは,物理的に失われたという意味ではなく,$Y$ を明示しない限り,環境に蓄えられた情報とエネルギーを追跡できないという意味である.

記憶核としての散逸

影響汎関数や Mori–Zwanzig 形式では,散逸はしばしば

$$\begin{align} \int^t dt' \Gamma(t-t') X(t') \end{align}$$

のような 記憶核(memory kernel) として現れる.この非局所性が意味するのは,環境が過去の情報を保持しており,その情報が遅れて系に作用するということである.すなわち散逸は,瞬間的な摩擦の仮定ではなく,環境との履歴的相互作用の痕跡である.Markov 近似は,環境の相関時間が十分短いとみなして,この記憶核を局所化した極限に過ぎない.

積分の上限が $t$ であることは,散逸が因果的に実装されていることを表している.未来の自由度が現在に影響することはなく,過去の履歴だけが効く.

自己エネルギーとの対応

Green 関数の言葉では,環境を消去した効果は遅延自己エネルギー $\Sigma^R(\omega)$ としてまとめられる.周波数空間では Dyson 方程式

$$\begin{align} G^R(\omega)=\frac{1}{(G_0^R(\omega))^{-1}-\Sigma^R(\omega)} \end{align}$$

の形で書け,$\Sigma^R$ が応答のスペクトル構造を再編成する.とくに散逸(減衰)に対応するのは虚部であり,$\mathrm{Im}\Sigma^R(\omega)$ が線幅の広がりや寿命の有限性として観測される.一方,実部は準位や有効パラメータの繰り込みとして現れる.散逸は「相互作用を弱くした副作用」ではなく,縮約した自由度を通じて応答が再編成された結果として理解すべきである.

可逆な力学から不可逆な記述へ

重要なのは,散逸はミクロな方程式に「初めから入っている」わけではなく,粗視化した記述において初めて現れるという点である.これは矛盾ではない.全系の時間発展はユニタリ(あるいはハミルトニアン)であり,可逆である.一方で,$Y$ を消去した有効記述は,過去の情報の一部を追跡しないという意味で不可逆な写像になっている.散逸は「力学が壊れた」ことの証拠ではなく,どこまでを系として見るかという選択の反映なのである.

散逸をどう扱うか

実際の有効理論では,記憶核を局所摩擦項で近似したり,摩擦係数を定数として置いたりすることが多い.そのような単純化は,時間スケール分離や弱結合といった追加仮定のもとで正当化される.したがって散逸を理解するとは,環境のスペクトル構造や結合の形,射影の選び方といった情報のうち,どれを保持し,どれを捨てたのかを理解することに等しい.

また,散逸を近似として入れるなら,同じ消去操作から生じる雑音相関との整合性も同時に確保しなければならない.この点を次節で扱う.

まとめ

散逸は,エネルギー保存の破れでも,可逆性の放棄でもない.見ていない自由度へ流れたエネルギーと情報を,観測自由度だけの言葉で表現した結果として現れる.この視点に立つと,散逸は非平衡性の「原因」ではなく,粗視化した非平衡記述に必然的に伴う構造として位置づけられる.

次節では,この散逸と不可分な関係にあるノイズ相関と正値性を詳しく見る。


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