8.2 経路確率と射影

非平衡の基本対象を経路確率とし,粗視化を経路空間での周辺化として定義して,全系がマルコフでも有効過程が一般に非マルコフ(記憶)になる理由を示す.

非平衡では,「ある時刻の状態」だけを見ても現象の本質がつかめないことが多い.散逸や記憶といった効果は,時間発展の履歴そのものに現れるからである.この点を最初から正しく捉えるには,粗視化の対象を状態分布から 経路確率へと拡張するのが最短である.

本節では,経路空間での周辺化として粗視化を定義し,「全系がマルコフであっても,粗視化後は一般にマルコフではなくなる」ことを離散時間の式で見通しよく示す.

経路確率という基本対象

全系の自由度を $X$(残す)と $Y$(消す)に分け,時間区間 $[t_0,t_f]$ にわたる軌道を $X(t),Y(t)$ と書く.非平衡で基本となるのは,ある時刻の分布 $P(X,t)$ ではなく,軌道全体に重みを与える経路確率(確率汎関数)

$$\begin{align} \mathcal P[X(t),Y(t)] \end{align}$$

である.

連続時間の議論は,離散化した時刻 $t_n=t_0+n\Delta t$($n=0,\dots,N$)での列

$$\begin{align} X_{0:N}\equiv(X_0,\dots,X_N),\qquad Y_{0:N}\equiv(Y_0,\dots,Y_N) \end{align}$$

を考えると直感が得やすい.

経路空間での粗視化(経路周辺化)

経路に対する粗視化は,各時刻ごとに $Y$ を「消す」のではなく,経路全体を一つの対象として周辺化する:

$$\begin{align} \mathcal P_{\mathrm{eff}}[X(t)] \equiv \int \mathcal D Y(t) \mathcal P[X(t),Y(t)]. \end{align}$$

離散化して書けば

$$\begin{align} \int \mathcal D Y(t) \cdots \equiv \prod_{n=0}^{N}\int dY_n \cdots \end{align}$$

である.この操作の結果,$Y$ の自由度が担っていた「過去の情報」が,$X$ だけの有効理論では一般に時間非局所(履歴依存)として姿を変えて残る.

なぜマルコフ性が壊れるか:離散時間での見通し

全系 $(X,Y)$ がマルコフ過程であるとは,遷移核 $T$ を用いて

$$\begin{align} P(X_{0:N},Y_{0:N}) = P_0(X_0,Y_0) \prod_{n=0}^{N-1} T(X_{n+1},Y_{n+1}\mid X_n,Y_n) \end{align}$$

と書けることに等しい.

ここで $Y$ を消して得られる $X$ の経路確率は

$$\begin{align} P_{\mathrm{eff}}(X_{0:N}) \equiv \int dY_{0:N} P(X_{0:N},Y_{0:N}) \end{align}$$

で与えられる.このとき,$X$ の「一段先」の条件付き確率は

$$\begin{align} P_{\mathrm{eff}}(X_{n+1}\mid X_{0:n}) = \int dY_n \pi_n(Y_n) \tilde T(X_{n+1}\mid X_n,Y_n), \end{align}$$

と書ける.ここで $\pi_n(Y_n)\equiv P(Y_n\mid X_{0:n})$ は,$X$ の過去 $X_{0:n}$ を見たときの隠れ自由度の事後分布であり,

$$\begin{align} \tilde T(X_{n+1}\mid X_n,Y_n)\equiv\int dY_{n+1} T(X_{n+1},Y_{n+1}\mid X_n,Y_n) \end{align}$$

である.ポイントは,$\pi_n$ が一般に $X_n$ だけでは決まらず 履歴 $X_{0:n}$ に依存することである.したがって

全系がマルコフでも,粗視化後の $X$ は一般にマルコフにならない.

これが「粗視化がマルコフ性を破壊する」理由であり,近似の副作用ではなく周辺化の必然的帰結である.

もちろん,$Y$ が十分速く緩和して $\pi_n(Y_n)\simeq \pi_{\mathrm{st}}(Y_n\mid X_n)$ と近似できるなら,有効過程は(近似的に)マルコフ化する.時間スケール分離やMarkov近似とは,まさにこの段階で導入される仮定である.

射影としての理解

経路周辺化は

$$\begin{align} \mathcal P: \mathcal P[X(t),Y(t)]\mapsto \mathcal P_{\mathrm{eff}}[X(t)] \end{align}$$

という写像として抽象化できる.ここでの「射影」は,ヒルベルト空間の直交射影に限らず,確率測度の空間で「見る自由度を選ぶ」操作を指すと考えるとよい.

まとめ

  • 非平衡で基本となるのは状態分布ではなく 経路確率である.
  • 粗視化は経路空間での周辺化 $\int\mathcal D Y(t)$ として定義できる.
  • 全系がマルコフでも,隠れ自由度の事後分布 $\pi_n(Y_n)=P(Y_n\mid X_{0:n})$ が履歴依存になるため,有効過程は一般に 非マルコフ的になる.
  • 近似(時間スケール分離,Markov近似など)は,この厳密な経路粗視化の後段で導入される.

次節では,量子系における経路粗視化を具体的に実装する枠組みとして,Feynman–Vernon の影響汎関数(influence functional)を導入する.


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