第III部では,ミクロな自由度をすべて追うことなく,有効理論(effective theory)として閉じた記述を作るための枠組みを扱う.その第一歩は,「消したい自由度を積分して取り除く」という粗視化(coarse-graining)の定義を,あいまいさなく書くことである.
粗視化はしばしば「平均を取る」「細かい情報を捨てる」と直感的に説明される.しかし本質はより単純で,全系の確率(あるいは密度行列)から,観測したい自由度だけの周辺量を作るという操作である.本節ではこの操作を周辺化として定義し,その時点で既に不可逆性(情報の喪失)が生じること,さらに射影演算子として整理できることを確認する.
粗視化=周辺化 ¶
全系の自由度を,観測・記述したい自由度 $X$ と,明示的には追跡しない自由度 $Y$ に分ける.古典系なら全系状態は同時確率分布 $P(X,Y)$ で与えられ,粗視化とは
$$\begin{align} P_{\mathrm{eff}}(X) \equiv \int dY P(X,Y) \end{align}$$で定義される周辺分布である($Y$ が離散なら積分は和に置き換わる).$P$ が正規化されていれば
$$\begin{align} \int dX P_{\mathrm{eff}}(X)=\int dX dY P(X,Y)=1 \end{align}$$であり,周辺化は確率の正規化を保つ.
量子系でも構造は同じで,全系密度行列 $\rho$ に対して環境自由度 $Y$ を跡を取った
$$\begin{align} \rho_{\mathrm{eff}} \equiv \mathrm{Tr}_Y \rho \end{align}$$が粗視化された(縮約された)密度行列になる.座標表示では
$$\begin{align} \rho_{\mathrm{eff}}(X,X') = \int dY \rho(X,Y;X',Y) \end{align}$$と書け,やはり「見ない自由度を積分する」形をしている.
この意味で粗視化は,経験的な平均操作というよりも,
「どの自由度を見るか」を選ぶ射影
として理解するのが自然である.
不可逆性:条件付き情報の喪失 ¶
周辺化は一般に情報を失う.実際,
$$\begin{align} P(X,Y)=P_{\mathrm{eff}}(X) P(Y\mid X) \end{align}$$と分解できるが,$P_{\mathrm{eff}}(X)$ だけから条件付き分布 $P(Y\mid X)$ を一意に復元することはできない.すなわち
粗視化は定義した瞬間に不可逆である
この不可逆性は「近似を入れたから」生じるのではない.粗視化の段階は厳密であり,失われたのは単に「記述しない」と決めた自由度に関する条件付き情報である.その後に現れる散逸やエントロピー生成は,この情報の行方(どの形で残るか)として理解される.
射影演算子としての定式化 ¶
周辺化を作用素として書けば,確率分布に作用する写像
$$\begin{align} (\mathcal P P)(X)\equiv\int dY P(X,Y) \end{align}$$を定義できる.これは二回かけても変わらない(冪等性)
$$\begin{align} \mathcal P^2=\mathcal P \end{align}$$を満たすので,$\mathcal P$ は(広い意味での)射影演算子とみなせる.補射影 $\mathcal Q\equiv 1-\mathcal P$ を導入すると,のちに
- Mori–Zwanzig 形式における $\mathcal P/\mathcal Q$ 分解,
- 量子論での影響汎関数(influence functional),
- 有効運動方程式に現れる記憶核と雑音,
が同じ構造の別表現として現れる.
平衡統計力学:自由エネルギーの再編成 ¶
平衡統計力学は,粗視化が「重みの修正」として静的に現れる特殊例である.ミクロ状態を $(X,Y)$,マクロ状態を $X$ と見れば分配関数
$$\begin{align} Z=\int dX dY e^{-\beta H(X,Y)} \end{align}$$は
$$\begin{align} Z=\int dX e^{-\beta F_{\mathrm{eff}}(X)},\qquad F_{\mathrm{eff}}(X)\equiv -\frac{1}{\beta}\ln\int dY e^{-\beta H(X,Y)} \end{align}$$と書ける.ここに現れる $F_{\mathrm{eff}}(X)$ はエネルギーではなく自由エネルギーであり,$Y$ のエントロピーや相互作用の寄与を含んだ「粗視化後の有効ポテンシャル」として理解される.
非平衡で何が変わるか ¶
平衡では $Y$ の消去は静的な重みの再定義で完結する.しかしダイナミクスを扱うと,$Y$ の消去は一般に
- 有効運動が 非マルコフ的(履歴依存)になる,
- 時間非局所な 記憶核 が生成される,
- 散逸 と 雑音 が同時に現れる,
という形で「複雑さ」を残す.重要なのは,これらは粗視化の副作用ではなく,粗視化そのものの帰結だという点である.
もちろん,適切な仮定(時間スケール分離や弱結合など)を追加すれば,記憶を局所化したり雑音を単純化したりできる.しかしそれは粗視化とは別の段階で導入される「有効化の近似」である.
まとめ ¶
- 粗視化は $Y$ を積分して $P_{\mathrm{eff}}(X)$ を作る 周辺化(量子では部分トレース)である.
- 周辺化は条件付き情報 $P(Y\mid X)$ を捨てるので,定義した時点で 不可逆 である.
- 周辺化は冪等な写像 $\mathcal P$ として書け,$\mathcal Q=1-\mathcal P$ との分解が後の形式(影響汎関数,Mori–Zwanzig)を貫く.
次節では,粗視化の対象を「状態」から「時間発展全体(経路)」へと拡張し,なぜ粗視化が一般にマルコフ性を壊し,記憶を生むのかを見通しよく理解する.