ここまでで,平衡という条件が実時間理論にどれほど強い制約を課すかを見た.要点は,KMS条件(7.1節)と動的KMS対称性(7.2節)によって,二点関数のレベルでは揺動散逸定理(7.3節)が成立し,Keldysh形式の統計的自由度が温度とスペクトルから固定される,ということである.本節では,この縮約された情報が虚時間の言語へ「射影」され,Matsubara形式として回収されることを整理する.
平衡で縮約されたKeldysh情報 ¶
平衡では時間並進対称性があるので,二点関数は $t-t'$ だけに依存し,周波数表示が自然になる.さらにFDTにより(ボース系の例)
$$\begin{align} G^K(\omega) = \coth\left(\frac{\beta\omega}{2}\right)\bigl(G^R(\omega)-G^A(\omega)\bigr) \end{align}$$が成り立つ.すなわち,力学を担うスペクトル(例えば $\rho(\omega)=-2\mathrm{Im} G^R(\omega)$)と温度が与えられれば,統計成分はもはや独立ではない.平衡の情報は「スペクトル+温度」という少数の入力へ縮約される.
この縮約を別の言語で表現したものがMatsubara形式である.Matsubara形式は新しい仮定を足すのではなく,平衡という特殊点に制限したKeldysh理論を,虚時間方向へ写し取った表現にすぎない.
虚時間Green関数と周期性 ¶
平衡のGibbs状態 $\rho_{\mathrm{eq}}\propto e^{-\beta H}$ では,演算子の虚時間発展
$$\begin{align} B(\tau)=e^{H\tau}Be^{-H\tau} \end{align}$$を用いて,虚時間順序Green関数(Matsubara Green関数)を
$$\begin{align} G_M(\tau)\equiv -\langle T_\tau B(\tau)B(0)\rangle_{\mathrm{eq}} \end{align}$$と定義できる.KMS条件は,この虚時間相関が $\tau$ 方向に周期(ボース)/反周期(フェルミ)になることを意味し,
$$\begin{align} G_M(\tau+\beta)=\pm G_M(\tau) \end{align}$$を与える.この周期性があるために,周波数は離散化され,Matsubara周波数
$$\begin{align} \omega_n= \begin{cases} 2\pi n/\beta & (\text{boson})\\ (2n+1)\pi/\beta & (\text{fermion}) \end{cases} \end{align}$$が自然に現れる.
スペクトル表現と実時間への戻し ¶
平衡では,虚時間の相関も実時間の応答も同一のスペクトル関数で記述できる.例えば解析性を用いると
$$\begin{align} G_M(i\omega_n)=\int_{-\infty}^{\infty}\frac{d\omega}{2\pi}\frac{\rho(\omega)}{i\omega_n-\omega} \end{align}$$というスペクトル表現が得られる.右辺に現れる $\rho(\omega)$ は実時間の $G^R(\omega)$ と同じ情報を持つので,Matsubara側で $\rho$(あるいはそれと同値な $G_M$)を決められれば,解析接続
$$\begin{align} i\omega_n\ \to\ \omega+i0^+ \end{align}$$によって遅延関数 $G^R(\omega)$ が回収できる.その後はFDTを用いて $G^K$ も決まるから,平衡の実時間理論はMatsubara形式へ完全に圧縮できる.
非平衡ではなぜ失敗するか ¶
非平衡では一般にKMS条件が成り立たず,虚時間方向の周期性がない.したがって
- Matsubara周波数という離散化
- 虚時間順序Green関数だけでの完結
は成立しない.非平衡でMatsubara形式が使えない理由は「技術的に難しいから」ではなく,成立に必要な対称性と解析構造がそもそも欠けているからである.
以上を踏まえると,本章の結論は明確である.Keldysh形式が一般形であり,Matsubara形式は平衡点に制限した縮約表現である.以後の非平衡理論は,この平衡点(時間並進+KMS+FDT)から「どの制約がどのように破れているか」を記述する試みとして理解できる.