4.2 スペクトル関数と正値性

遅延Green関数の虚部からスペクトル関数を導入し,Lehmann表示に基づく正値性が物理的整合性条件であることと,スペクトル(力学)と分布(統計)の分離をKeldysh表示で見通す.

前節では,因果性を遅延Green関数として定義し,周波数空間での解析性やKeldysh形式の行列構造へつながることを見た.実時間Green関数を物理に結び付けるとき,中心になるのは $G^R$ そのものというより,その虚部で定義されるスペクトル関数である.本節ではスペクトル関数の意味と,それが満たすべき基本的制約としての正値性(positivity)を整理する.

スペクトル関数:励起の重み

スペクトル関数は

$$\begin{align} \rho(\omega)=-2 \mathrm{Im} G^R(\omega) \end{align}$$

で定義される.$\rho(\omega)$ には,励起の存在位置(ピーク),寿命(幅),連続スペクトルの有無といった,実験的に観測される情報が集約される.言い換えれば,$\rho(\omega)$ は「何が起こり得るか」という力学的情報を符号化している.

正値性とは何か

スペクトル関数には決定的に重要な性質がある.それが正値性である.観測量や規約に依存して表現は多少変わるが,典型的には

$$\begin{align} \omega \rho(\omega)\ge 0 \end{align}$$

のような不等式が成り立つ(適切な規約のもとで).直感的には,「物理的スペクトル重みは負にならない」という主張である.

正値性の起源

正値性は仮定ではない.その起源は,ヒルベルト空間の内積の正定値性と,演算子のエルミート性にある.より具体的には,Lehmann表示(固有状態展開)を用いるとスペクトル関数が遷移確率の和として書けるため,確率が負にならないことがそのまま正値性として現れる.

正値性は整合性条件である

正値性は「あると嬉しい性質」ではなく,理論が物理として意味を持つための整合性条件である.もし計算されたスペクトル関数が負になるなら,それは

  • 近似の取り方
  • 粗視化の手順
  • 切断(truncation)の仕方

のどこかで,ヒルベルト空間的な確率解釈が破綻していることを示唆する.この意味で正値性は,実時間Green関数の計算結果を検査する最も鋭い指標の一つである.

スペクトルと分布の区別

スペクトル関数は「許される励起の構造」を表し,分布関数は「それがどれくらい占有されているか」という統計的情報を表す.したがって

  • スペクトル関数:力学(因果性・ハミルトニアン)により決まる.
  • 分布関数:状態(平衡・非平衡,初期条件)に依存する.

という役割分担がある.平衡で特別なのは,KMS条件によって分布が温度で固定され,揺らぎと応答が結び付く点であって,スペクトル関数そのものが平衡特有になるわけではない.

Keldysh形式での見通し

Keldysh形式では,この区別はより明確になる.$G^R,G^A$ が因果性とスペクトルを担い,$G^K$ が分布(揺らぎ)を担う.正値性は主としてスペクトル(したがって $G^R$)に課される構造的制約であり,統計成分である $G^K$ とは役割が異なる.

まとめ

  • スペクトル関数 $\rho(\omega)=-2 \mathrm{Im} G^R(\omega)$ は励起の重みを表す.
  • 正値性は確率解釈に由来する必然的制約であり,物理的整合性のチェックになる.
  • スペクトル(力学)と分布(統計)は概念的に独立であり,平衡ではKMS条件が両者を結び付ける.

次節では,因果性から従う解析性が応答関数の実部と虚部を結び付けるKramers–Kronig関係を導き,スペクトル関数が応答の情報をどのように符号化しているかを明確にする.


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