3.1 虚時間の導入とWick回転

KMS条件が示す平衡相関関数の虚時間構造から虚時間とWick回転の意味を整理し,それが解析性に支えられることを述べる.

前章で見たKMS条件は,平衡相関関数が虚時間方向に特定の構造を持つことを示していた.Matsubara形式で「虚時間」が現れるのは,計算を簡単にするための後付けの技巧ではない.それは平衡という仮定が相関関数に課す対称性の,最も直接的な帰結である.

本節では,虚時間がどこから現れるのかをKMS条件から眺めなおし,Wick回転 $t\to -i\tau$ が何をしているのかを,物理的な意味を保ったまま整理する.

虚時間は平衡相関関数の内在的構造である

平衡ではKMS条件

$$\begin{align} \langle A(t)B(0)\rangle=\langle B(0)A(t+i\beta)\rangle \end{align}$$

が成り立つ.この式は,相関関数を複素時間に拡張したときに「虚時間方向のシフト $i\beta$」が特別な役割を持つことを主張している.言い換えれば,平衡状態では時間を実数軸の上だけで考えるのは不自然であり,複素時間平面の上で相関関数の構造を捉えることがむしろ本質に近い.

この見方を採ると,「虚時間を導入する」のではなく,「平衡相関関数がもともと持っている虚時間方向の構造を取り出す」と考えた方がよい.

熱分布と時間発展の同一性

熱平衡期待値

$$\begin{align} \langle O\rangle = \frac{1}{Z} \mathrm{Tr}\left(e^{-\beta H}O\right) \end{align}$$

に現れる $e^{-\beta H}$ は,形式的には「時間発展 $e^{-iHt}$ の虚時間版」に見える.しかし重要なのは見かけの類似ではなく,熱分布と時間発展が同じ生成子 $H$ によって記述されているという事実である.この同一性があるからこそ,温度 $\beta^{-1}$ は時間方向の構造(虚時間方向の長さ)として現れ得る.

Wick回転とは何か

Wick回転は形式的には

$$\begin{align} t \to -i\tau \end{align}$$

という変換である.これにより,実時間の振動因子 $e^{-iHt}$ は虚時間で減衰因子 $e^{-H\tau}$ に変わり,統計力学の量(分配関数や虚時間相関)と量子力学の量(時間発展)を同じ形で扱えるようになる.

ただし,ここで注意すべき点がある.Wick回転は「いつでもできる置き換え」ではない.物理的に正当化されるのは,相関関数が複素時間平面で適切な解析性を持ち,実軸から虚軸への連続的な変形が物理量を変えないときに限られる.その解析性の起源は,次節で述べるように因果性(遅延応答)にある.

虚時間形式が埋め込む仮定

虚時間形式を採用した瞬間に,我々は平衡に特有の仮定を定義に埋め込んでいる.とくに重要なのは次の二点である.

  • KMS条件(平衡)が成り立つ.
  • 初期条件依存が(少なくとも議論の対象として)消えている.

その結果,虚時間形式は計算が閉じた体系になる一方で,一般の非平衡過程の記述にはそのままでは拡張できない.平衡の強さは,虚時間という便利さの形で現れると同時に,適用範囲の制限としても現れる.

まとめ

  • 虚時間の導入は計算上の便宜ではなく,KMS条件が示す平衡相関関数の内在的構造である.
  • 熱分布と時間発展が同じ生成子 $H$ によって結び付いていることが,温度と虚時間を結び付ける.
  • Wick回転は常に許されるわけではなく,因果性に由来する解析性が必要である.
  • 虚時間形式は平衡という強い仮定を定義に埋め込んだ言語である.

次節では,因果性が周波数空間で解析性として現れることを示し,なぜWick回転や解析接続が物理的に正当化されるのかを準備する.


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