前節では,平衡が単なる定常性ではなく,「過程と逆過程が統計的に釣り合う」という時間反転対称性(詳細釣り合い)を満たすことを見た.量子系では,演算子の非可換性のために「遷移率」だけで平衡を言い尽くすことは難しい.その代わり,平衡を相関関数の言語で完全に特徴づける条件としてKMS条件(Kubo–Martin–Schwinger条件)が現れる.
本節では,KMS条件を形式的に定義した上で,その虚時間シフトが何を意味しているのか,そしてKMS条件がGreen関数の自由度をどのように固定するのかを整理する.
KMS条件の形式的定義 ¶
平衡状態,すなわち密度行列 $\rho_{\mathrm{eq}} \propto e^{-\beta H}$ となる状態において,演算子 $A,B$ の実時間相関関数は
$$\begin{align} \langle A(t)B(0)\rangle = \langle B(0)A(t+i\beta)\rangle \qquad (\beta=1/k_B T) \end{align}$$を満たす.これがKMS条件である.これは密度行列が $\rho_{\mathrm{eq}} \propto e^{-\beta H}$ と書けると仮定し,演算子の時間発展も同じ $H$ で記述されることから導かれる条件である.123
この式は,時間 $t$ を複素平面へ拡張したときに相関関数が特定の解析構造を持つことを主張している.しかしKMS条件は単なる数学的性質ではなく,量子系における「平衡である」ことの決定的な内容を表している.
虚時間シフトは何を意味するか ¶
KMS条件で最も特徴的なのは
$$\begin{align} t \to t+i\beta \end{align}$$という虚時間方向へのシフトである.これはWick回転の副産物でも,計算上の技巧でもない.KMS条件の物理的意味は,平衡では「時間発展」と「熱分布」が同じ生成子 $H$ によって結び付いているという一点に尽きる.実際,Heisenberg表示 $A(t)=e^{iHt}Ae^{-iHt}$ を用いると
$$\begin{align} e^{-\beta H}A(t)=A(t+i\beta) e^{-\beta H} \end{align}$$が形式的に成り立つ.計算を一行ずつ書くと,例えば右辺から
$$\begin{align} \begin{aligned} A(t+i\beta) e^{-\beta H} &= e^{iH(t+i\beta)} A e^{-iH(t+i\beta)} e^{-\beta H} \\ &= e^{-\beta H} e^{iHt} A e^{-iHt} \\ &= e^{-\beta H}A(t) \end{aligned} \end{align}$$となる.この恒等式が期待値の中で相関関数の関係として現れる.時間を進める操作とボルツマン重みをかける操作が同じ $H$ によって記述されることが,平衡の虚時間構造を生むのである.
KMS条件は「熱浴の存在」を意味しない ¶
KMS条件が成り立つからといって,系が必ず外部の熱浴と接触している必要はない.系が孤立していても,状態として $\rho_{\mathrm{eq}}\propto e^{-\beta H}$ を仮定する限りKMS条件は成立する.KMS条件が表しているのは環境の有無ではなく,状態(密度行列)の性質である.
KMS条件はどれほど強い条件か ¶
KMS条件が成り立つとき,平衡は「温度という一つのパラメータで状態が特徴づけられる」という形で現れる.逆に言えば,KMS条件が破れている限り,どれほど定常に見えてもその系は非平衡である.平衡と非平衡の境界は,見かけの時間依存性ではなく,相関関数がこの対称性を満たすかどうかにある.
Green関数の言語での表現 ¶
KMS条件は,実時間Green関数の成分の間の関係として書ける.例えば平衡では,greater/lesser 成分が周波数空間で
$$\begin{align} G^{>}(\omega)=e^{\beta\omega} G^{<}(\omega) \end{align}$$のように結び付く(規約に依存する).Keldysh表示では,この内容はより直接に
$$\begin{align} G^K(\omega) = \coth\left(\frac{\beta\omega}{2}\right)\bigl(G^R(\omega)-G^A(\omega)\bigr) \end{align}$$(ボース系の例)として現れる.ここで $G^R,G^A$ は因果性とスペクトルを担い,$G^K$ は揺らぎ(分布)を担う.平衡ではKMS条件によって $G^K$ が温度とスペクトルから完全に固定される.つまり,KMS条件は「応答と揺らぎが独立でない」ことを,Green関数の自由度として具体的に実装している.
なぜMatsubara形式が成立するのか ¶
KMS条件があると,相関関数は虚時間方向に周期(ボース)または反周期(フェルミ)を持つ.この周期性が,Matsubara周波数の離散化と虚時間Green関数の閉じた形式体系を正当化する.したがってMatsubara形式は「平衡を仮定した計算技法」ではなく,「KMS条件を定義に埋め込んだ言語」である.
まとめ ¶
- KMS条件は量子系における平衡(詳細釣り合い)を相関関数の言語で完全に表現する条件である.
- 虚時間シフトは,熱分布と時間発展が同じ生成子 $H$ によって結び付いていることの反映である.
- KMS条件は熱浴の存在ではなく,状態(密度行列)の性質を表す.
- 平衡ではKMS条件により,Green関数の統計的自由度が温度によって固定される.
次章では,KMS条件が保証する虚時間構造を出発点として,虚時間の導入とWick回転,そして解析接続の正当化を順に説明する.
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厳密には,Gibbs状態 $\rho_{\mathrm{eq}}=e^{-\beta H}/Z$ と Heisenberg時間発展を仮定し,トレースの巡回性 $\mathrm{Tr}(XY)=\mathrm{Tr}(YX)$ と恒等式 $e^{-\beta H}A(t)=A(t+i\beta)e^{-\beta H}$ を用いて導く. ↩︎
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$A(t+i\beta)$ は「演算子を複素時刻に代入する」というよりも,相関関数が帯領域 $0<\mathrm{Im} z<\beta$ に解析接続できることを前提にした境界値として理解される.厳密なKMS条件は解析性(帯で正則)と境界条件を合わせて述べる. ↩︎
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無限系(熱力学極限)では $e^{-\beta H}$ がトレース級にならず $\rho\propto e^{-\beta H}$ と書けない場合がある.この場合は,KMS条件そのものを平衡状態の定義として採用するのが標準的である. ↩︎