前節では,平衡記述が保存量とエルゴード性という仮定に支えられていることを見た.しかし「定常に見える」ことと「平衡である」ことの差を最もはっきり示すのは,過程のレベルでの時間反転対称性である.本節では,その具体的な表現である詳細釣り合い(detailed balance)を導入し,定常性との違いを整理する.
詳細釣り合いの定義 ¶
古典確率過程で平衡を特徴づける条件として,詳細釣り合いは次のように書かれる.状態 $x$ から $x'$ への遷移率を $W(x\to x')$,平衡分布を $P_{\mathrm{eq}}(x)$ とすると,
$$\begin{align} P_{\mathrm{eq}}(x) W(x\to x') = P_{\mathrm{eq}}(x') W(x'\to x) \end{align}$$が任意の状態対 $(x,x')$ について成り立つ.直感的には「ある過程とその逆過程が確率のレベルで釣り合っている」という主張である.
この式は,確率流
$$\begin{align} J(x\to x') \equiv P(x) W(x\to x') \end{align}$$を用いれば「平衡では $J(x\to x')=J(x'\to x)$ であり,ネットの循環流が存在しない」と言い換えられる.
定常性よりも強い理由 ¶
定常性は,マスター方程式の右辺がゼロになること,すなわち
$$\begin{align} \sum_{x'}\Bigl[P(x')W(x'\to x)-P(x)W(x\to x')\Bigr]=0 \end{align}$$を要求するだけである.これは「確率が時間に依存しない」ことは保証するが,個々の遷移がどう釣り合っているかは問わない.そのため,定常であっても循環する確率流(非零のカレント)を持つことがあり得る.
一方,詳細釣り合いは各遷移ごとに釣り合いを課すため,定常性よりはるかに強い条件である.定常性が「入ってくる流れと出ていく流れの総和が等しい」という弱い条件だとすれば,詳細釣り合いは「一つひとつの流れがすでに釣り合っている」という条件である.
時間反転対称性との関係 ¶
詳細釣り合いが成り立つ本質的な理由は,平衡では時間反転対称性が統計的に回復している点にある.非平衡では,外部駆動や勾配によって確率流が維持され,過程と逆過程は区別される.その区別がエントロピー生成として定量化される.
平衡ではその区別が消え,確率過程が時間反転に対して不変になる.詳細釣り合いは,この「統計的な時間反転対称性」を最も直接に書き下した条件である.
詳細釣り合いは仮定である ¶
ミクロの力学が時間反転対称であることと,粗視化した確率過程が詳細釣り合いを満たすことは別である.詳細釣り合いが成り立つためには,例えば
- 外部駆動や勾配がない.
- 長時間の記憶効果が無視できる(適切な粗視化ができている).
- 保存量の流れが存在しない.
といった条件が必要になる.したがって詳細釣り合いは,平衡記述を成立させるために採用される仮定であり,これらの条件が崩れれば一般に破れる.
量子系ではどう現れるか ¶
量子系では「遷移率」の概念をそのまま基本に据えるのは難しい.その代わり,相関関数のレベルで平衡の時間反転対称性が現れる.最も精密な表現がKMS条件であり,詳細釣り合いはその古典極限(あるいはある種の実時間極限)として理解できる.
Green関数の言語で見た詳細釣り合い ¶
Green関数の立場から言えば,詳細釣り合いが意味するのは「応答と揺らぎが独立でなくなる」ことである.平衡では,分布関数は温度によって固定され,揺動散逸定理(FDT)が成立する.その結果,非平衡で自由に残る統計的自由度が大きく減少する.
まとめ ¶
- 詳細釣り合いは,過程と逆過程が確率のレベルで釣り合うという平衡の条件である.
- 定常性は弱い条件であり,定常でも循環する確率流を持つ非平衡定常状態があり得る.
- 詳細釣り合いは時間反転対称性の統計的回復に対応し,外部駆動などがあると一般に破れる.
- 量子系では,詳細釣り合いはKMS条件として相関関数の言語で精密に表現される.
次節では,量子系における「平衡の完全な条件」としてKMS条件を導入し,虚時間構造やFDTがどのように従うかを説明する.