第1章では,Green関数が「摂動計算の道具」という以上に,因果性を保ったまま観測可能な応答を記述するための理論言語として現れることを見た.しかし多体問題の理論では,しばしば平衡統計力学を先に導入し,その上でMatsubara形式へ進む.そこで第2章では,平衡統計力学が何を仮定しているのかを整理する.
本節の目的は,「十分待てば自然に平衡に落ち着く」という直感的な言い方の背後にある仮定を言語化することである.定常性(時間に依存しないこと)と平衡(熱平衡)を区別し,平衡が相関関数に課す強い制約が,後に詳しく扱う詳細釣り合いとKMS条件として現れる見通しを与える.
平衡は「到達する状態」ではなく仮定である ¶
物理で「平衡」という語を聞くと,「十分長い時間待てば系は自然に平衡へ落ち着く」という説明がしばしば語られる.直感としては正しい場面も多いが,理論としては不正確である.平衡とは力学方程式から自動的に出てくる結論ではなく,記述の段階で採用される一連の捨象(捨てる情報の選択)である.
具体的に言えば,平衡を仮定するとはおおむね次のことを受け入れることに対応する.
- 観測されるマクロ量は,初期条件の詳細に依存しない.
- 状態は少数の保存量(エネルギー,粒子数など)だけで特徴づけられる.
- 系の一部を切り出しても,同じ形式の分布(同じ温度など)で記述できる.
これらは「結果」ではなく,「どの範囲の現象を扱うか」を決めるための前提条件である.後の章でMatsubara形式が強力になる理由も,この強い前提を定義に埋め込んでいる点にある.
定常性と平衡は同義ではない ¶
力学の言葉で「平衡」を定義したくなるとき,最初に思いつくのは「時間に依存しない」という条件である.しかし時間に依存しない状態(定常状態)は,平衡よりも広い概念である.例えば
- 系内部で駆動力のある場合:駆動と散逸が釣り合った非平衡定常状態
- 境界条件で固定される場合:温度勾配や粒子流を保ったままの定常状態(必ずしも局所平衡に限らない)
は定常ではあるが,一般に熱平衡ではない.したがって「時間に依存しない」ことは平衡の必要条件になり得ても,十分条件ではない.平衡を平衡たらしめる追加の条件がどこにあるのかが,この章の中心になる.
統計力学における平衡:情報の捨象としての分布 ¶
平衡統計力学では,カノニカル分布やグランドカノニカル分布が自然に現れる.しかし重要なのは,それらが力学から一意に導かれた結果だと思い込まないことである.カノニカル分布
$$\begin{align} \rho_{\mathrm{eq}} = \frac{1}{Z} e^{-\beta H} \qquad \left(\beta=\frac{1}{k_B T}\right) \end{align}$$は,典型的には「保存量以外の情報を捨てる」という選択(最大エントロピー原理など)と,その選択が正当化される極限(熱力学極限,時間スケール分離,短距離相互作用など)を組み合わせて採用される.言い換えれば,平衡とは「情報が極限まで捨てられた状態」であり,その分だけ相関関数やGreen関数の自由度が減る.
平衡を特徴づける条件:詳細釣り合いとKMS条件 ¶
平衡を平衡たらしめる核心的な性質は,単なる定常性ではなく,過程と逆過程が統計的に釣り合うという対称性である.古典確率過程では詳細釣り合い(detailed balance)として
$$\begin{align} P_{\mathrm{eq}}(x) W(x\to x') = P_{\mathrm{eq}}(x') W(x'\to x) \end{align}$$が現れる.量子系では,この内容を相関関数の言語で精密に言い換えたものがKMS条件(Kubo–Martin–Schwinger条件)であり,
$$\begin{align} \langle A(t)B(0)\rangle = \langle B(0)A(t+i\beta)\rangle \end{align}$$が平衡で成り立つ.KMS条件は数学的な技巧ではなく,「平衡では熱分布と時間発展が両立している」という強い対称性を表している.そしてこの対称性が,後に揺動散逸定理や虚時間(Matsubara)形式の正当化として具体的な形を取る.
Green関数の言語で見た平衡 ¶
Green関数法の立場から言えば,平衡を仮定することは「統計的自由度が温度によって固定される」ことを意味する.非平衡では応答(遅延/先進)と揺らぎ(分布)は原理的に独立であるのに対し,平衡ではKMS条件がそれらを結び付ける.その結果,独立に与えるべき情報が大きく減り,虚時間形式が閉じた計算体系として成立する.
まとめ ¶
- 平衡は力学の必然的帰結ではなく,記述の段階で採用される一連の仮定である.
- 定常性(時間に依存しないこと)は平衡より弱く,NESSのように定常でも非平衡な状況は普通に存在する.
- 平衡統計力学は「保存量以外の情報を捨てる」という選択と,それが正当化される極限の上に成立する.
- 平衡を特徴づける本質は詳細釣り合いとKMS条件であり,平衡は相関関数の対称性として現れる.
次節では,平衡記述がなぜ保存量の選択とエルゴード性という仮定を必要とするのかを整理する.